寳蓮寺
当山十一面観世音菩薩は、延暦年間、大師入唐の砌、玉津船屋の浜辺に順風を待っておられた時、大師の徳を慕う者達が一行の世話をし、別れを惜しんだ。
当山十一面観世音菩薩は、延暦年間、大師入唐の砌、玉津船屋の浜辺に順風を待っておられた時、大師の徳を慕う者達が一行の世話をし、別れを惜しんだ。
大師はその人達の為に浜辺近くの丘に小さな庵を結び、御手づから彫刻された御尊像を祀られ残して行かれた。
以来「十地山清浄光院」として市内四軒町に移し一帯の地に七堂伽藍の偉容を誇っていたが「天正の兵火」に遭い焼失。
その後、四軒町「小川氏」「神保氏」両氏の屋敷に仮安置されていたが、寛永8年、現在地に移った。
古来より観音信仰は民衆の間に非常に厚く、尊い霊仏である。
現在の御脇立の三十三体の仏像は、西国三十三ヶ所の御本尊で「安阿弥」の作と伝えられている。
元は無本寺であったが寛永11年「御室御所仁和寺」の末寺となり「北海山寳蓮寺」と改める。
北海山寳蓮寺の山号の由来は、寺伝によれば、北斗星に祈りを込めて星運を守り福徳が授かるようとの願いに依り名付けられたものである。